2012年御翼8月号その1

家康と朝鮮貴族の娘

 サザンオールスターズの歌に、「夢に消えたジュリア」(桑田佳祐(けいすけ)作詞/作曲)がある。この曲は、伊豆七島の神津島にある「流人墓地」にまつわるある一人の朝鮮人クリスチャン女性の物語をベースにしたとされている。
 豊臣秀吉が文禄の役(ぶんろくのえき)(1592〜93)で、朝鮮出兵(朝鮮侵略)を行った際、多くの朝鮮人が日本に連れて来られた。その中に、キリシタン大名・小西(こにし)行(ゆき)長(なが)の軍によって現在の北朝鮮、平壌近郊で捕らえられた五歳になる幼女が一人いた。幼女の生年月日や実名・家系などの詳細はいっさい不明である。彼女は、小西行長の夫人ジュスタ(洗礼名)のもとにあずけられた。幼女は夫人の寵愛を受け、やがて洗礼を受け「おたあ・ジュリア」と呼ばれるようになる(「ジュリア」は洗礼名、「おたあ」は彼女の朝鮮名がなまったもの)。ジュリアは、成長し当時大変美しい女性の一人に数えられた。
 1600(慶長5)年、行(ゆき)長(なが)が関ヶ原の戦いに敗れ、処刑されると、ジュリアは大奥で徳川家康に侍女として仕えることとなる。昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷し、聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いた。1612年(慶長17)、家康はキリシタン禁教令を出し、大奥にいたジュリアを投獄し、改宗を迫った。このことから彼女は家康の側女(そばめ)となっていたとの憶測もあるが、「家康様からは確かに多くの恩を受けました。しかし神様から比べ物にならないほどの多くの恩を受けたのです。神様を裏切る事は決して出来ません。家康の側女となるよりは殺されることを選びます」と、ジュリアは宣教師に明言していた。当時の神父が、ジュリアの信仰を大変評価し、こんな手紙を残している。「彼女はまだ若い盛りにあり、自然の賜物(大変美しく、賢かった)に恵まれているのに、茨の中(家康の大奥)にあって、自分の霊魂を汚すよりは、自分の命を捨てる固い決心をしている」と。
 改宗に応じないジュリアを家康は、1612年に島流しにする。最初に流された伊豆大島で彼女は、大奥から持ってきた衣服をみな貧しい人々に分け与えたという。約一か月後、更に南方の新島に流され、最後に神津島(こうづしま)に流される。3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順(きょうじゅん)を求められ、断り続けた結果であろう。島流しにあった場合、そのほとんどが自暴自棄になり、精神障害になる者も数多くいた。ところがジュリアは、島民の日常生活に献身的に尽くし、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人の世話をした。結果多くの島民がキリスト教に入信していったという。ジュリアは神津島で約40年間生き長らえ、60歳余で召され、流人墓地(るにんぼち)に丁寧に葬られた。そこには、今でも四面に十字架の刻まれた朝鮮式の墓があり、毎年五月に日韓のクリスチャンを中心に、「ジュリア祭」が行なわれている。
 ジュリア・おたあは、幼少時期に日本人によって父母を殺され、故郷から無理やり異郷の地に追いやられ、さらには無実の罪で流罪にされた。こんな不幸な人生はなく、普通ならば、絶望や恨みしか生まれてこない。しかし彼女は、境遇を嘆くことなく、かえって高潔な生き方を貫き通し、暗闇の中で光となって、愛と希望を他の人々に与え続けた。この人生の秘訣は、「イエス様が私の代わりに十字架にかかり、私が犯した全ての刑罰を受けてくださった」という赦しの信仰にある。ジュリアの祝福された生涯は、「イエス様が悪魔にも死にも勝った」ことを信じる復活の信仰を、心から信じ、口で告白した結果である。

バックナンバーはこちら HOME